おじいさんと桜

桜が咲いて、たくさん花びらが落ちている。一体この大量の花びらはいつもどこにいくんだろう。

 

桜は花もきれいだけど、その幹の方にも魅力がある気がする。「こんな黒い色は私には出せない」と染織家の人が言ったと聞いたことがある。雨にぬれた桜の幹。そのごつごつした威厳のある姿。

 

私は木を見る時、葉っぱが落ちたあとの枝と幹を見るのが好きだから、余計そう思うのかもしれない。枝の曲線と鋭い形がつくるシルエットが、太陽が沈んだ瞬間の空に映しだされるとき、なんともいえない気持ちになる。

 

学生の頃、学校の正門に1本あった桜の木はなんだか王者みたいな風格だった。その幹の曲がり様は、完全に私のつぼだと思っていた。

 

ある日その近くで本を読んでいると、通りすがりのおばさんがいきなり昔話を始めた。(ある場所でいかにも暇そうにしていると、うっかり知らない人の昔話や近況を聞くはめになる。)

 

「ここ一体は昔はあの1本だけ残っている桜の木と同じような桜が、たくさんあった道だったけれど、新しく道をつくるために木を切り倒した。本当はもっと早くできるはずだったけれど、近所のおじいさんが反対して何年も工事ができなかった。そのおじいさんが最近亡くなってようやく道をつくることが出来た。この道ができて今は本当に便利である。」

 

というような話である。どんなに不便な道だったんだろうか。今も巨大な坂の頂点にこの集落一帯があるということに、私は根本的な不便を感じているけれど。できればこの丘が全部なくなればいいのにと思っている私は、そのおじいさんに顔向けできなかったなあ、とぼんやり思った。

 

そういう壮絶な歴史に耐えた桜の木だから、なんだか威厳があるように思えるのかもしれない。しかし、一人反対者がいるだけで、工事が進まないというのは、すごいことだと思った。ニュースを見ていると、いろんな反対の声が結局聞かれないでつぶされることの虚しさを感じることも多いけれど、そうやって声を出すことはやっぱり大事なんだと思う。