社会科の先生

私は社会の先生という人が基本的に好きだった。

 

成績がいいわけではないのに、なんとなく社会の時間はいつも好きだった。

 

授業の終わりには質問や感想を書いたノートを提出して、次の時間までには一人一人にちゃんと応えて返してくれる先生も多かった。

 

卒業式などには、国歌が歌われる。私達の子供のときには、その時に起立して歌わない先生はぽつりぽつりいたと記憶している。その姿を横目でみる子供の私には、先生が起立しない意味は正確には分かっていない。ぼんやりと先の戦争が関わっていると思うぐらいだけど、その姿に勇気をもらうことは多かった。うやむやにせずに、自分の中で真実をつらぬこうとしている姿に見えたからだった。そこに、考える自由と個人の尊重があるようにも思えた。

 

「あの戦争で、日本は過ちを犯した。」

小学校でも中学校でも、私達はそう習った。

長野県の松代にある大本営にバスで行けば、強制連行された人々によって掘られた巨大洞窟があった。ここで命を落とした人はどれだけだったか。天皇始め日本の上層部の人たちが最後の最後に逃げ込もうと用意した巨大な穴だった。また慰安婦問題のドキュメンタリーを録画したものを小学校の担任の先生が、学校のテレビで見せてくれたりもした。そこに出てきたおばあさんの涙は今でも頭から離れない。私達はそれぞれ考えさせられた。

 

 

そういう中で社会の先生の卒業式での姿は、その先生がよく考えた結果であるのだと思った。 いろいろな立場がある中で、先生はそれを選んだんだ。ここにはその選択の自由がある。

 

今、一部の地域では国歌斉唱に起立しない教師は処分の対象となりうる。

これからそれらの地域以外でも、子供のとき私が見たような先生はいなくなってしまうんだろうか。 子供はそういう先生の姿から悪影響は受けない、それぞれがよく考えることを教えてもらっている気がする。